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コラム26

~新しい天と新しい地~ 神の最高の計画としてのみことばコラムは、今回で最終回です。神の国建設計画のゴー ルが「新しい天と新しい地」だからです。神が目指しておられるこのゴールを、私たちも 同じように目指すことができたら幸いです。この預言は黙示録21~22章にのみありま す。旧約の預言者たちは知らないということですね。罪の影響を全く受けない新天新地が 創造される様子が記されています。ただし「聖なる都」としての「新しいエルサレム」が その時創造されるのではありません。それは天において既に存在しており、創造された新 しい天と新しい地のところに降って来るのです(黙示録21:2)。ヨハネがまず見せられた のはそれで、次に彼は天からの声を聞きました。第一声が「見よ。神の幕屋が人とともに ある。神は人々とともに住み…」です(黙示録21:3)。これまでの世界で経験することが できなかった神の永遠なる栄光だけに囲まれて生活するようになることを預言しています 。 その永遠の生活は、消極的な意味では、一切の苦労、呪い、また悲しみの原因がすべて取 り除かれた生活です。極めて積極的な意味では、造られた新天新地の中に降ってくる「新 しいエルサレム」を相続するということです。 朽ちることのない神の財産を相続するわけですが、その特徴が記されています。都自体 のサイズは一辺を2200㎞としたキューブ状です(21:16)。月の体積と同じくらいと言わ れているそうですが、この世界にそのサイズの都市は存在しません。壁の高さは63mも (21:17)都の素材は神の栄光にふさわしいものばかりです(21:18-21)「いのちの水の川 」が流れています。その水源は神と子羊の御座です(22:1)。実際の川ですが、永遠の霊 的祝福の象徴でもあります。その両岸にはいのちの木が植わっていて、毎月が収穫期です 。しかも12種の異なった実がなるのです。その木の葉は民を癒します。病人がいるのでは なく、健康を永遠に与え続けるものです。そこには夜(闇)がありません。罪がいっさい 入りようがないからです。常に神の栄光の光が照らします(22:5)。 イエスはこの預言の最後にこう言われました。「しかり、わたしはすぐに来る 」(22:20) 今すぐに来るという意味ではありません。あらかじめ定められた神の時に遅れることなく 来るという意味で...

コラム25 

~白い御座のさばき~ 前回、千年王国預言に触れました。地上において千年の間イエスが王国を治めます。そ の間悪魔は全く活動できないように底知れぬ所に閉じ込められます(20:1,2)。既に携挙 された私たちのからだは贖われて、罪のない状態でイエスとともに国を治めるのです。今 の地上に比べると、極めて罪のない状態になります。それは、戦いがないこと(イザヤ 2:1-4)、人の寿命が長いこと、動物と人、動物同士に敵意がないこと(イザヤ65:20-25) でも現されています。しかし、罪が全くなくなるわけではありません。王国には空中携挙 されずに患難時代に突入し、そこで救われていく人たちがいます。またその人たちから生 まれて来る子どもも救われなければなりません。  さて、千年が終わる時、拘束されていた悪魔が解き放たれます。悪魔はイエスと最後の 戦いをするために、王国にいる携挙されていない人々(救われた人たちを含む)を惑わし て、イエスに敵対する者として招集します。その数が海の砂のようです(20:7-8)。罪が 存在していることが良くわかりますね。神が悪魔を解き放ったのは、最後のさばきを行う ためです。悪魔とそれに従った者たちは、天からの火によって一瞬のうちに焼き尽くされ ます。そして、反キリストと偽預言者とともに火と硫黄の池に投げ込まれます。「…彼は おまえの頭を打ち…」(創世記3:15)との原福音が成就します。 悪魔を永遠の苦しみに葬ったあと、神は最終的なさばきを「大きな白い御座」において 行われます。天地創造によって地上に存在した全ての不信者を、神はさばくためによみが えらせます。神はいのちの書に従って、そこに名が記されていないすべての者を、悪魔と 同じ火の池に投げ込まれるのです。その時に「死」もそこに投げ込まれます。「…キリス トは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです」(Ⅱテモテ 1:10)とのみことばから、白い御座に着座されているのはイエス・キリストであることが わかります。私たちを罪から救うために十字架の死に従われたお方は、「殺した後で、ゲ ヘナに投げ込む権威を持っておられる方」(ルカ⒓:5)です。悪魔の支配の今の世におい て、この方を恐れる人は幸いです。

コラム24

~千年王国~ 千年王国とは、再臨のイエスによって建てられる地上の王国です。「千年」は文字通り で、黙示録20章の預言のことばに6回出てきます。ところで皆さんは千年王国に関心があ りますか?いわゆる「天国」よりも関心を示すことが難しい場合、旧約聖書を余り読んで いないことが一つの原因と考えられます。旧約聖書には千年王国預言が沢山書かれていま す。ただ通読だけだと見落としがちですが、全体的に神の計画を意識して取り組むと、千 年王国が見えてきます。ちなみに、「終わりの日」「その日」「主の(聖なる)山」「エ ルサレム」と言うワード、フレーズが出て来たら千年王国の可能性ありです(すべてでは ないですが)。いくつか見ていきしょう。 ①詩篇24章 「だれが、主の山に登り得るのか…手がきよく、心の澄んだ人…あなたの 御顔を慕い求める人々である…門よ おまえたちの頭を上げよ…栄光の王が入って来られ る…」主の山はエルサレムを指します。千年王国の首都です。その時には主と顔と顔とを 合わせて交わります。 ➁イザヤ2:2-4「終わりの日に…国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばな い」千年王国はイエスが王となって治めるので、すべてではないですが戦いが激減します 。  ③アモス9:11「その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす…」 倒れているダビデの仮庵とは、旧約時代ダビデ王国の栄光が無力にも風前の灯となってし まったのですが、神と人の幕屋が、その日、神のご主権によって回復される預言です。千 年王国のことです。  ④ミカ4:1-8 「その終わりの日、主の家の山は、山々のかしらとして堅くたち、もろも ろの丘よりも高くそびえ立つ…」千年王国が確立する時には、エルサレムが地殻変動によ って他の山々よりも高くそびえ立つことが預言されています。  ⑤ハガイ2:6-9 「…間もなく、もう一度、わたしは天と地、海と陸を揺り動かす…わた しはこの宮を栄光で満たす…この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる…」 宮と は千年王国における王なるイエスの神殿のことです。「先のものにまさる」宮は千年王国 だけです。 旧約の聖徒たちは千年王国に望みを向けています。ですから、この他にも千年王国預言が なされているのです。これを知らないことは神の祝福を大きく取りこぼします。皆さん、 聖書を読みましょう...

コラム23

~地上再臨~ 7年の患難期の終わりに、イエス・キリストが地上に再臨されます。旧約聖書にも預言 されています(エゼキエル39:21-29、ハバクク3:1-19)詩篇18篇8,9節には「…炭火は主 から燃え上がった。主は、天を押し曲げて降りて来られた。黒雲をその足の下にして」と あります。ユダの手紙14、15節も注目すべき預言です。「…見よ、主は何万もの聖徒を引 き連れて来られる。すべての者にさばきを行い、…不敬虔な罪人たちが主に逆らって語っ たすべての暴言について、皆を罪に定めるためである」初臨における柔和の姿はなく、怒 りに満ちたキリストが再臨されます。地をさばくために来られるからです。マタイ24章30 節ではキリストご自身が預言しておられます。 さて、創造のはじめに人が堕落して以来、サタンとの戦いが繰り広げられてきました。 いよいよ最後の戦いです。反キリストと悪霊どもによって集められた全世界の王たちが 、「全能者なる神の大いなる日の戦い」に挑みます(黙示録16:14)。この戦いを主導し ておられるのは神です。「あなたがたの鋤を剣に、あなたがたの鎌を槍に打ち直せ…周り のすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ…諸国の民は立ち上がり、ヨシャファテの 谷に上って来い」(ヨエル3:9-12)ヨエル書の預言にあるように、神は、ご主権の中で 、反抗する全世界の王とその軍隊が「(エルサレムにある)ヨシャパテの谷」に集まって 来いと挑戦しておられるのです。彼らの最後は「…生きたまま、硫黄と燃える火の池に投 げ込まれ」ます。(黙示録19:19,20) 勝利されたキリストはオリーブ山に立たれます。「主が出て行かれる。決戦の日に戦う ように、それらの国々と戦われる。その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山 の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができ る…」(ゼカリヤ14:3,4)そして、「人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほ どの、大きな強い地震」が起こり(黙示録16:18)、主が立たれるオリーブ山が真っ二つ に裂けるのです。ミカ書4章1節には「その終わりの日、主の家の山は、山々のかしらと して堅く立ち、もろもろの丘よりも高くそびえ立つ。そこへもろもろの民が流れて来る」 とあります。 キリストが反キリストとその軍勢に勝利されたの...

コラム22

~地上の患難時代~ すべての真の信者がイエスのもとに引き上げられると(携挙)、地上では7年間の患難 時代に突入します。その預言のことばは黙示録4~18章に、またイエスもマタイの福音 書24章で預言されています。  今は地上に教会が存在します。しかし患難時代には存在しなくなります。そうなると地 上で何が起こるでしょうか?「不法がはびこ」ります(マタイ24:12)。イエス(真理 )に対抗する背教が起こるということです(Ⅱテサロニケ2:3,4)。そこに「不法の者 、すなわち滅びの子が現れ」ます。反キリストのことです。黙示録では「獣」と呼ばれて います。(反)キリストと呼ばれるくらいですから魅力があります。7年間の前半はその 魅力で人々を惑わします。人々を調和する力、経済的繁栄、法の秩序…これまでにはない 平和が訪れたと人々は思います。世界の国々は反キリストに権威を付与します。キリスト に反抗し続けているイスラエルも、反キリストと契約を結びます(ダニエル9:27)これ らの反キリストのねらいは自分の国を造ることです。神の国を造らせないためのものです 。人々の心をつかんだ7年の後半は、反キリストを礼拝の対象として拝むことを要求しま す(Ⅱテサロニケ2:4、マタイ24:15)。このようにして反キリストは絶対的な権威を 行使して獣の国を確立するのです。  さて、神はなぜ患難時代を計画されたのでしょうか? 一つには、獣の国(悪魔の国)を完全に破壊するためです。そこには悪のコマ(反キリス ト、偽預言者、反キリストに追従する国々)がすべて揃います。悪魔の支配世界を「世」 と呼びます。本来神が造られたものです。それをだれの目からもわかるように、神が奪還 されるのです。かつてパロの率いるエジプトを海が呑み込んで神の栄光を現したように、 神の計画の最終段階は更にダイナミックに行われるのです。 もう一つは、イスラエルの救いのためです。彼らは歴史の中で、どんなに追い詰められて も、イエスがキリスト(メシア)であることを否定し続け、悔い改めることをしません。 しかし、彼らは患難時代の終わり間際で悔い改めます(ゼカリヤ12:10)。「…イスラエ ルの一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時までであり、こうして、イスラエルはみな 救われるのです」(ローマ11:25,26)。つまり、イスラエルが民族ごと救...

コラム21

~携挙後のキリストのさばきの座~ 今も主は私たちとともにおられますが、携挙された時(Ⅰテサロニケ5:17)から顔と顔と を合わせてお会いすることになります。想像ができません。ですから聖書が教えるところ を信じましょう。ただお会いするのではなく、携挙の結果、信者は「人の子の前に立つ 」(ルカ21:36)ことになります。立つ場所は「キリストのさばきの座」です(Ⅱコリント 5:10)。罪をさばく場ではありません。この時は既に「朽ちないものによみがえ」ってい ますから(Ⅰコリント15:52)、全く罪のない状態です。信者はキリストの前で、地上生涯 で行って来たことに応じて報いを受けるというさばきを受けるのです。(「さばく」とは 、あちらとこちらに分けることを言う)救われた後の行為すべてをキリストが評価される のです。 「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあ ってした行為に応じて報いを受けることになるからです」(Ⅱコリント5:10)   イエスの評価の仕方は、Ⅰコリント3章10-15節に、建物の建て方のたとえで教えられてい ます。イエスという土台の上に、どのような材質で建物を建てたかがさばきの基準です。 材質には「金、銀、宝石、木、草、藁」があります。神のみこころに沿った建て方は、金 、銀、宝石です。木、草、藁は、地上における告白されていなかった罪の生活です。繰り 返し申し上げますが、その時既にからだは贖われ罪のない状態です。それと地上生涯の評 価(報い)は別です。  主は建てた材質を火で燃やされます。木、草、藁の信仰生活、その働きは燃やされてし まいます。金、銀、宝石の働きはより純化されます(3:13-15)。後者の評価は冠によって あらわされます。 ①節制し、霊的生活で勝利した者に与えられる「朽ちない冠」(Ⅰコリント9:24,25)、 ②主を待ち望みながら正しい信仰を守った者に与えられる「義の冠」(Ⅱテモテ4:7,8) ③試練を耐え抜き最後まで忠実な者に与えられる「いのちの冠」(ヤコブ1:12、黙示録 2:10) ④神の羊の群れを牧した者に与えられる「栄光の冠」(Ⅰペテロ5:2-4) 救いを完成してくださる方から良い評価をいただきたいと生きる信仰生活は祝福されるで しょう。この望みを抱き続けることができるように、聖霊が兄姉を助けてく...

コラム20

~携挙される教会~ 「携挙」とは教会が天に挙げられることです。神の救いのご計画の最終段階に入る大事 なところです。そこでは神の超自然的なわざが展開されます。携挙される教会は不可視的 な教会です。イエスを信じて救われた真の信者が全員、天に挙げられることになります。 携挙時にどのようなことが起こるのかテサロニケ第一の手紙4章16~18節に記されて います。順を追って整理します。 ①キリストが天から下って来られる ②号令がかかる  下って来られたキリストの号令で、以下が動き出します。 ③御使いのかしらの声が発せられる ④神のラッパが響く 携挙が起こるための最終的な合図です。 ⑤キリストにある死者がよみがえる 使徒2章以降の聖霊のバプテスマに与った信者の死者たちがよみがえります。旧約時代の 信者たちのよみがえりは、もう少し先で起こります。 ⑥生き残っている信者たちが、⑤の信者たちと一緒に雲に包まれて引き上げられる ➆すべての信者が空中で主イエスキリストと会い、いつまでも(永遠に)主とともにいる ことになる 携挙の時期は、患難時代に入る前です。患難時代の始まりはダニエル書9章27節に記 されています。「彼は一週間の間、多くの者と堅い契約を結び…」「彼」とは反キリスト のことで、「多くの者」とはイスラエルのことです。反キリストがイスラエルと契約を結 ぶときが患難時代の始まりです。その前に不可視的教会は携挙されます。 黙示録を見ると、1~3章が患難時代の前の出来事が記されています。そこには教会が 存在しています。また、黙示録19~22章は患難時代の後のことが記されていて、そこ にも教会が存在しています。そこでは花婿イエス・キリストの「花嫁」として表現されて います(19:7、21:2)。黙示録4~18章は患難時代のことが記されています。そこに 教会の言及はありません。つまり、患難時代には地上に教会が存在しないということです 。また、これらの黙示録の言及から、携挙される教会が可視的教会ではなく、不可視的教 会であることも確認できます。正しい教会理解は、神の計画の最終段階(終末)を正しく 理解させてくれます。

コラム19

~聖霊とキリストのからだなる教会の時代~ 神の国を造られるための計画として教会を誕生させた神は、サタンに対抗する武具とし て聖書をお与えになりました(旧約に続く新約聖書)。その武具を正しく用いるために助 け主である聖霊がおられます。教会が誕生して以来、今に至るまで教会はこの世に存続し 続けています。その間教会は、外的、内的迫害を受け続けますが、聖霊の助けと神のこと ばによって守られているのです。 さて、「教会」について詳しく説明する必要があります。今後の神の計画を正しく受け 取るためです。「教会」の本来の意味は「呼び出された者(エクレシア)」です。このこ とばは聖書で二種類の教会を指しています。不可視的な教会と可視的な教会です。 (不可視的な教会)  この教会は人には見えないけれども、神の目には見えている教会です。聖書には単数形 で書かれています。つまりこの教会は唯一です。その聖句を挙げると、「…この岩の上に 、わたしの教会を建てます…」(マタイ16:18)、「神は教会の中に、第一に使徒たち、 第二に預言者たち…」、その他Ⅰコリント15:9、エペソ1:22,23、コロサイ1:18など。この 教会の一員は聖霊のバプテスマに与っている人です。聖霊のバプテスマとは、イエスを信 じて救われた瞬間に与えられる祝福です。これは使徒2章のペンテコステの日以来に与え られているものです。つまりそこから教会が開始され、イエスが空中再臨(Ⅰテサロニケ 4:13-17)されて教会が引き上げられるまでが不可視的教会に属する人となります。この教 会は「キリストのからだ」(エペソ1:23)や「新しい一人の人」(エペソ2:15)とも表現 します。私たちはこのように、聖霊とキリストのからだなる教会の時代を生きているので す。 (可視的な教会)  この教会は人の目に見ることのできる各教会です。聖書では「コリントにある神の教会 へ…」(Ⅰコリント1:2)、「…ガラテヤ諸教会へ」(ガラテヤ1:2)等、複数形で書かれて います。立川聖書バプテスト教会もその一つですね。可視的教会と不可視的教会の違いは 、見える見えないだけではありません。可視的教会には偽りが入っています(Ⅰペテロ 2:1)。 しかし不可視的教会は真の信者のみです。 (神の計画)  終わりの日にキリストが教会を迎えに来られます。キリストが来臨...

コラム18

ユダヤ人がキリスト(メシア)を拒んだために、彼らから神の国が取り去られてしまいました。これは神のご計画の失敗ではなく、異邦人が救われる時代に入ることを意味します。それは教会の時代です。神は異邦人が先に救われることで、頑ななユダヤ人たちが救われていくことをご存じでした(ローマ11:11-14)。神がイスラエルの次に、神の国を完成させるための手段として用いるのは教会です。 教会とは、ユダヤ人と異邦人からなる「新しい一人の人」のことを言います。教会の構成メンバーはイエスキリストを信じて、聖霊のバプテスマを受けた人たちです。「こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し」(エペソ2:15)と述べられているとおりです。また、次のようにも述べています。「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです」(エペソ1:10)。これがキリストのからだである教会です。目に見えるものではありません。「教会はキリストのからだであり…」(エペソ1:23)このことばは原語において単数形で記されています。つまり一つだけの教会です。それはまだ未完成です。異邦人が救われて、その後にユダヤ人が救われて初めて一つとして完成します(ローマ11:25,26)。その完成の手段として、神は可視的な各地域にある教会を建てられます(これは複数形で記されている)。その各教会に異邦人が救われるために宣教命令が与えられているのです(マタイ28:18-20)。 サタンは神の国を阻むために教会を攻撃します。しかも、一つとならなければならないユダヤ人が救われた異邦人とその教会を迫害するように仕向けました。外からの迫害だけではなく、聖書の教えから逸脱させる内的な迫害も起こしました。偽教師を教会に送り、「…曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起って来る」(使徒20:29,30)ようになります。 神は、教会がサタンから守られるために、真理の帯や正義の胸当て、救いのかぶとなど、防具を備えてくださいました。その中で唯一攻撃の武具として、「御霊の剣、すなわち神のことば」を与えてくださいました(エペソ6:14-17)。使徒たちの時代に既に旧約聖書はありました。新約聖書は、最初に書かれたものでAD50年代(...

コラム17

新約時代 ~教会の誕生~  ユダヤ人たちのイエスに対する憎しみは尋常ではありませんでした。それは神の国を完成させないためのサタンの働きです。ユダヤ人たちが救われたら神の国が完成することを彼は知っていたからです(エペソ1:10、2:14-22、ローマ11:25-27、ガラテヤ3:19-21等)。 サタンがユダヤ人たちに抱かせた憎しみがイエスを十字架につけたことは、サタンの大失敗です。それで神の贖いのわざが実現したのですから。十字架と復活の出来事以後も、サタンの「ユダヤ人が救われないように」計画は進められました。それは彼らの歴史を見れば明らかです(ローマ帝国やナチス・ドイツの支配等)。  神の計画に打撃を受けているようにも見えますが違います。神はご自身の国を造るために、新たな計画を立てておられました。それは教会を誕生させることです。イエスの復活後、イエスは大事な約束を弟子たちに告げられました。「…あなたがたは間もなく、聖霊によるバプテスマを授けられる」(使徒1:5)  イエスをキリストと信じた瞬間、その人に聖霊が降られます。それが聖霊のバプテスマです(使徒2:38,39)。そして、その人たちによって教会が形成されるのです(使徒2:41)。神はユダヤ人たちが不信仰に陥ったので、神の計画を進める新しい民として、教会を建てられたのです。これは、「イスラエル(ユダヤ人)で失敗したから、次の計画」ではありません。今後、教会が建てられることにより、多くの異邦人が救われていきます。神の計画はまずユダヤ人だったはずです。しかし彼らはサタンにそそのかされ、傲慢と憎しみのかたまりになってしまいました。だから、神はそのかたまりを打ち砕いて、悔い改めることができるように、異邦人の救いを先にしたのです(ローマ11:11,25,26) この「二つのもの(ユダヤ人と異邦人)を、一つのからだ」(エペソ2:15,16)に造り上げることが地上における神の国の完成です。神の知恵と力は無限です。それは神の愛から流れ出て、現に私たちに及んでいるのです。

コラム16

新約時代 ~「神の国」の宣教~ イエスの宣教メッセージの中心は「神の国」です(マルコ1:15)。旧約時代の預言者た ちは神の国の到来を預言していました。ユダヤ人たちはこれをメシア王国(千年王国)と 呼びます。イエスは神の国の福音を宣べ伝えるとともに、奇蹟を行い、来るべき神の国の 王としての権威を示されました。 イエスは神の国の福音をまずユダヤ人に伝えました。ユダヤ人たちはこれを拒みました 。彼らはイエスがキリスト(父なる神の任命を受けたメシア)であることを否定しました 。そしてイエスが語る真理のことばに対してねたみを抱き、殺そうとしました(マルコ 3:6)。イエスへの殺意の背後には、神の計画を阻むサタンの働きがあることを覚えなけれ ばなりません。イエスを拒んだ罪のゆえに、ユダヤ人に提供されていた神の国は彼らから 取り去られました。 これはサタンの勝利でしょうか?いいえ、神はユダヤ人の不信仰をご自身の計画の成就 のために、かえって用いられました(ローマ11:25,26)。イエスを拒否した民は、最終的 にイエスを十字架につけることを要求します。イエスの死は「世の罪を取り除く神の子羊 」(ヨハネ1:29)としての死です。罪人が罪の赦しと永遠のいのちを得るための救いは実 現したのです。サタンとしてはユダヤ人の誘惑に成功したことが裏目に出たのです。 イエスは十字架で確かに死なれ、三日の後によみがえられました。そのよみがえりは、 イエスの死が私たちの罪を赦す効力があること、死とサタンに勝利したこと、神の国建設 が大いに前進したことを明らかにしました。 イエスは四十日の間、弟子たちに復活の姿を現し、神の国のことを語られました(使徒 1:3)その後天に上げられました。その時御使いにこう言われました。「ガリラヤの人たち 、どうして天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイ エスは、天に上って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになります 。」(使徒1:11)これはイエスの再臨の預言です。神の国が完成するのは、イエスが再臨 されるときです。

コラム15

新約時代 ~「女の子孫」の誕生~ 創世記3章15節の約束されていた「女の子孫」がついに誕生しました。「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者…として遣わされました」(ガラテヤ4:4)人間の女である乙女マリアから生まれた赤ちゃんは「イエス(神は救う)」とつけられました(ルカ1:31)。マリアに懐妊を告げた御使いはイエスを次のように紹介しています(ルカ1:32-33)。①「大いなる者」:偉大な者 ②「いと高き方」:神の御名そのもの ③父ダビデの王位/ヤコブの家を治め:ユダヤ人のメシア ④とこしえにヤコブの家を治め/その支配に終わりはありません:イエスの再臨とメシア王国(千年王国)の実現の宣言 メシアの誕生を阻んできたサタンの計画はすべて失敗に終わりました。しかし、イエスがお生まれになってから2年の間に、ユダヤの王であったヘロデによって殺害事件が起こりました。幼子イエスは、ヘロデの殺害計画を御使いから聞いた両親とともにエジプトに逃げました(マタイ2:13)。怒ったヘロデは、イエスが生まれたベツレヘムとその周辺一帯の二歳以下の男の子をみな殺してしまいました(マタイ2:16)。 イエス誕生を阻止できなかったサタンの次のねらいは、救いのわざである十字架を阻むことです。イエスが宣教を展開されているときはユダヤ人たちから幾度も殺意を向けられました(マルコ3:6)。これらはすべて背後にいるサタンの恐ろしいまでの執念です。彼は十字架における人間の救いをほんとうに阻むことができると思っているのでしょうか?十字架にかかられる前夜、イエスはサタンとの戦いを振り返り、こう言われました。 「わたしはもう、あなたがたに多くを話しません。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることができません。」(ヨハネ14:30) 世に対して絶大な悪影響を及ぼすサタンですが、イエスに対しては無力です。イエスの側につく者は幸いです。

コラム14

神にさばかれたイスラエルの民はバビロンに奴隷として連れて行かれました。国を失っ たのです。その後、神は幾人か預言者を遣わしましたが、預言者マラキで途絶えます (BC400年)。律法(神のことば)は与えられているものの、民がそれに背いたために神 のことばを伝達する預言者が遣わされたのですが、預言者がいない今、民は神のことばを 失ったことになります。この沈黙の期間、イエスが誕生するまで400年続きます。これを中 間時代と言います。この期間は救い主登場の舞台を整えるためにあります。この間に、バ ビロン帝国を倒すペルシャ帝国、ペルシャを倒すマケドニア帝国、マケドニアを倒すロー マ帝国が登場します。イスラエルはこれだけの国に支配され続けます。 民はバビロン捕囚以降、偶像礼拝から遠ざかります。民への神のさばきは偶像礼拝から 離れさせる教育でもあります。また神は民の帰還と再建をペルシャにさせます。強国が国 を支配しますが、そのすべてを神が支配しているのがわかります。神にとってそれらの国 々はご自身の計画を進めるための道具です。神がマケドニア帝国を使ったのは、後の新約 聖書をお造りになるためです。彼らは福音を伝播するのに有益な言語であるギリシャ語を 民の中に持ち込んだのです。 神はその時存在していた国々を偶然使ったのではありません。既に神の計画があっての ことです。それがダニエル書3:31-33にある巨大な像の預言のことばです。「その像は、頭 は純金(バビロン)、胸と両腕は銀(ペルシャ)、腹とももは青銅(マケドニア)、すね は鉄、足は一部が鉄(ローマ)…」 救い主メシアの誕生の舞台が整いました。創世記3章15節で約束されていた「女の子孫 」はサタンに阻まれ続けましたが、その通りになるのです。 「しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者とし て遣わされました。」(ガラテヤ4:4)

コラム13

旧約時代 ~王国の分裂、追放~ 神は「わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(Ⅱサムエル7:13)とダビデ契約を結ばれたことで、ご自身の救いの計画の不動性を宣言されました。すなわち、以後、王をはじめ民が失敗しても契約は取り消されません。ダビデの子孫は絶えることがないので、必ず救い主(女の子孫)が誕生することになるのです。 とは言っても今後の展開を見ていくと、とてもそうは思えません。ダビデから引き継いだソロモン王は、最初こそ自分の祝福よりも、国のために神の知恵を求めました。その豊かな知恵をもって国を治めていましたが、与えられた神の知恵さえ高ぶる要素となってしまいました。彼は力の繁栄を誇り(Ⅰ列王10:26)、無秩序の異性関係に陥り(Ⅰ列王11:1-3)、それに伴い様々な偶像が入り込み、まことの神礼拝の他に、妻たちがもたらした偶像神も礼拝するようになりました。 ソロモンの死後、国は分裂しました。これは国へのさばきです。しかし神は契約を破棄したのではありません。その証拠に、神は分裂した北と南の王国に次々と預言者を送るのです。預言者は民を神に立ち返らせるために、神から預かったことばを民に教える人です。その甲斐なく、民は益々悪くなっていきます。 神は激しく怒り、彼らに与えた地から民を追放します。まず神は北王国をアッシリア帝国に引き渡します(アッシリア捕囚 Ⅱ列王記17:5,6)。それから100年余経過してから南王国もバビロンに引き渡します(バビロン捕囚 Ⅱ歴代誌36:5,6)。契約は破棄されていないとしても、最悪の状況です。神のご計画はほとんど進んでいないとさえ思えるのです。  民が約束の地に入る前、神がイスラエルの民をお選びになった理由をこう仰せられました。「…主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから…」(申命記7:8)だから神は彼らを選び、エジプトから贖い出されたのです。神がご自身の計画を進められるのは、私たちへの愛と、ご自分が結ばれた契約を果たすためです。その神があえて愛する民を他国へ引き渡されるのはお考えがあるからです。それは容赦ないさばきとして、また頑なな民の心を矯正する手段としてです。神の愛から動かれていることは間違いありません。

2025年1月19日 午後礼拝メッセージ動画

ヨハネの黙示録20章1〜6節 テーマ「 千年(メシア)王国 」

コラム12

旧約時代 ~ダビデ王朝~ イスラエルの民が国に王を欲しがった動機は、神よりも人間の王に信頼を置きたいからでした。それにより立てられたサウル王は失敗に終わりました。次に立てられた王は神のご計画によるものです。ダビデ王です。 ダビデは12部族を統合した統一王国を確立しました。また彼は他民族が住んでいたエルサレムを征服し、そこを首都としました。やがて来られるイエスが築かれるメシア王国は、エルサレムが中心となります。 神はダビデと契約を結ばれます(Ⅱサムエル7:4-17)。この契約は神の救いのご計画において、大事な宣言がされているものです。「彼(ダビデ)はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル7:13) 神はダビデの「家」「王国」「王座」が永遠に続く契約を結ばれました。永遠の契約なので、ダビデが失敗したり、次の王(ソロモン)が失敗しても神の恵みが取り去られないことになっています。それはどういうことかというと、ダビデの子孫は途絶えないので、サタンが阻止していた女の子孫であるメシアは必ず起こされるということです。ダビデ契約はサタンへの勝利宣言のようなものです。 サタンは必死になってダビデの子孫の誕生を阻止します。ダビデ王が他人の妻バテ・シェバを奪い、彼女の夫を戦死させて隠ぺいを図った罪は(Ⅱサムエル11章)、間違いなくサタンの誘惑からのものです。しかし、神の勝利宣言のとおりにサタンは失敗に終わります。ダビデはさばかれるべき罪を犯しました。この事実は変えられません。しかし彼は神に悔い改めたのです(詩篇51篇)。神は彼を赦します。そして、蒔いたものを刈取らせます。このことを通して罪の恐ろしさを民全体に学ばせます。 罪を犯させる力のあるサタンも、神とダビデとのかかわりの中まで邪魔することはできないのです。神の契約のとおり、ダビデの子孫は永久に滅びないのです。

コラム11

旧約時代 ~王制の時代へ~ 士師の時代が終わると、イスラエルの民の歴史は王政の時代に入 ります。士師の時代はモーセやヨシュアのようなリーダーがおら ず、まだ預言者も登場しない移行期です(このあと預言者が登場 してる)。ですから、こういうことが起こっていました。「さ て、少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主 のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(Ⅰサムエル 3:1)「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう…」(箴言 29:18)のですから、民の信仰は風前の灯のように消えかかって いたのです。 神はこのタイミングで預言者を民の中に立てるご計画を持ってお られました。神が最初に立てた預言者はサムエルです(Ⅰサムエル 3章)。 彼の際立った働きは、『預言者学校の設立と育成』です(Ⅰサム エル19:20)。人をお選びになる神の目と、ご自身のプランに狂 いは一つもありません。今後、イスラエルの民は神のみこころか ら大きく外れていくこととなります。民らは「私たちをさばく王 を私たちに与えてください」(Ⅰサムエル8:6)とサムエルに願い 出ます。これは神よりも人間の王に信頼を置く国の在り方を欲し たものです。そこにはサタンの誘惑があったと言わなければなり ません。周囲の異教国家に魅力を感じたのでしょう。民らは神を 退けたとも、誘惑されたとも思っていません。それがサタンの巧 妙な罠です。今の私たちに適用すべき事柄です。与えられている みことばを離してはなりません。  最初に立てられたサウル王は立派な人でしたが、王を欲しがっ た動機が動機だけに失敗に終わります。王は小さな不従順を重 ね、最後には神に反抗することが生きがいになってしまいまし た。次の王を立てることで神はどのようなプランを用意されてい るのか、次号のお楽しみです。

コラム10

旧約時代 ~士師の時代~ イスラエルのリーダーであるヨシュアが死ぬと、民はルールのない混迷の時代に突入します。士師記の最後のことばにこうあります。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」(21:25)本来、王であられる神に従わず、与えられた律法にも従わず、めいめいが人間的な判断で正しいと思うことを行っていました。ヨシュアのことを知らない世代になってから、イスラエルに偶像礼拝が加速しました(2:10-13)。偶像礼拝と連動しているのが、異教の民との結婚です。民は「カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のただ中に住み、彼らの娘を自分たちの妻とし、また自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えた」(3:5,6) この光景を見てサタンは微笑んでいます。神の計画である「女の子孫(救い主)」を阻止できるからです。  そこで神は「さばきつかさ」(2:16)「救助者」(3:9)と呼ばれる人たちを立てられます。イスラエルを圧迫から救い、神の安息を回復するために特別に立てられた人たちです。彼らは外敵からの攻撃のときには戦いの統率者として先頭に立ち、平和な時には部族間のもめごとを調停する裁判官的な働きをしました。そういう人たちのことを「士師」と言います(治める者、裁き人という意味)。  士師は何人も立てられました。 ①「背信」彼らが問題を解決して平和が訪れると民はすぐに堕落します。 ②「さばき」すると神は民をさばき敵の手に渡されます。 ③「悔い改め」苦しみの中で民は悔い改めます。 ④「救い」すると神は士師を遣わし問題を解決します。 問題が解決すると平和が訪れ、再び堕落…これらを繰り返します。ですから士師が何人も立てられたのです。今の私たちも彼らと同じではないでしょうか。人は実に弱いのです。  士師の時代は非常に不安定でした。サタンに息の根を止められてもおかしくない状況であったにもかかわらず、神は彼らを保護しました。この時代が終わると、イスラエルは王制時代に入ります。

コラム9

旧約時代 モーセからヨシュアへ 神の民はいよいよ約束のカナンの地に入っていきます。神の民を教育し、心の内側から強化するための「律法」と、聖なる神を正しく礼拝することを教える「幕屋」を携えてカナン入国です!民のリーダーがモーセからヨシュアにバトンタッチしました。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け」(ヨシュア1:2)民の指導者は変わります。しかし、神の計画は決して変わることなく前進します。 大河ヨルダン川を人の力で渡ることはできません。それを渡れと神が命じられたのは、神ご自身の計画を民が認めるためです。川の水が堰き止められる神の奇蹟を見たときに、神の力と救いの計画を自覚したことでしょう。 更に彼らを待ち受けていたのはエリコの町です(ヨシュア6章)。町を囲む頑丈な城壁、その城壁のように強いエリコの王と勇士たちを攻略しなければ、約束の地を自分たちのものにできません。イスラエルの民は神の知恵と力による超自然的な戦いによって大勝利をおさめます。 ヨシュアはエリコの戦いの前に「主の軍の将」と出会います(ヨシュア5:13-15)。 「主の軍の将はヨシュアに言った。『あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である』(ヨシュア5:15)主を礼拝せよと命じられているのです。礼拝すべきお方がわざわざ、ヨシュアの前に主の軍の将として現れてくださったのは、これから始まる戦いが、主の戦いであることを分からせるためでした。 神の救いの計画を進めるために、様々な人を用います。しかし、そこで起こるサタンとの戦いは私たちの戦いではなく、主の戦いです。その主ご自身が将軍として先頭に立って戦ってくださるのです。

コラム8

旧約時代 律法と幕屋 神様はご自身の救いのご計画の中で、ご自分の民を育てるお方です。前回、エジプトから救い出された民の、荒野の四十年間が大事な教育期間であることに触れました(申命記8:2-5)。神様はご計画の中で、本格的に民の教育に着手されます。それが旧約時代の「律法」と「幕屋」です。 「偶像を造ってはならない…殺してはならない…」などの十戒をご存じかと思います。それを含む神の律法の教えは、出エジプト記20章から始まり、申命記28章までの広範囲に記されています。その戒め(教え)は613にも及びます。これが与えられた目的は、イスラエルの民の信仰生活を正しい方向に導くためです。サタンは女の子孫である救い主メシアが誕生しないように神の計画を妨害してきます。その計画の一つであるイスラエルの民を堕落させようと必死です。そこで神は、罪や背教に流れていきやすい民の内側を強めるために律法を与えたのです。さて彼らは律法を守ったでしょうか?いいえ。それどころか、神の教えではない言い伝え(口伝律法)を次々と作り出してしまったのです。神の計画には計り知れない神の忍耐があるのです。  神の教育手段のもう一つは「幕屋」です。出エジプト記25-31章に記されています。「…アカシア材で~を作り、その長さを二キュビト、幅を一キュビト、高さを…」というような幕屋作成の指示が詳細にあります。ちょっと読み飛ばしたくなるところですね。しかし、大事な教えです。幕屋は神様を礼拝するところです。幕屋の役割は、神様が聖であることを教えるための視聴覚教材です。イスラエルの民は幕屋、そこで奉仕する祭司、あるいは、そこでささげられる動物のいけにえを通して神様が聖であることを学んだのです。それは同時に、世俗と混同することが許されないことも教えられています。イエスキリストによる血の犠牲(贖い)は、幕屋における礼拝から来ているのです。 神様はご自身のご計画のゆえに、私たちをサタンの妨害から守ってくださいます。私たち自身が神の御心(お考え、ご計画)を知るならば、その守りはより強化されます。そのために与えられたのが律法です。また、常にサタンの妨害がある中で、正しく聖なる神を礼拝するならば、サタンアは嫌がります。そのために与えられたのが幕屋です。