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2025年1月19日 午後礼拝メッセージ動画

ヨハネの黙示録20章1〜6節 テーマ「 千年(メシア)王国 」

コラム12

旧約時代 ~ダビデ王朝~ イスラエルの民が国に王を欲しがった動機は、神よりも人間の王に信頼を置きたいからでした。それにより立てられたサウル王は失敗に終わりました。次に立てられた王は神のご計画によるものです。ダビデ王です。 ダビデは12部族を統合した統一王国を確立しました。また彼は他民族が住んでいたエルサレムを征服し、そこを首都としました。やがて来られるイエスが築かれるメシア王国は、エルサレムが中心となります。 神はダビデと契約を結ばれます(Ⅱサムエル7:4-17)。この契約は神の救いのご計画において、大事な宣言がされているものです。「彼(ダビデ)はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル7:13) 神はダビデの「家」「王国」「王座」が永遠に続く契約を結ばれました。永遠の契約なので、ダビデが失敗したり、次の王(ソロモン)が失敗しても神の恵みが取り去られないことになっています。それはどういうことかというと、ダビデの子孫は途絶えないので、サタンが阻止していた女の子孫であるメシアは必ず起こされるということです。ダビデ契約はサタンへの勝利宣言のようなものです。 サタンは必死になってダビデの子孫の誕生を阻止します。ダビデ王が他人の妻バテ・シェバを奪い、彼女の夫を戦死させて隠ぺいを図った罪は(Ⅱサムエル11章)、間違いなくサタンの誘惑からのものです。しかし、神の勝利宣言のとおりにサタンは失敗に終わります。ダビデはさばかれるべき罪を犯しました。この事実は変えられません。しかし彼は神に悔い改めたのです(詩篇51篇)。神は彼を赦します。そして、蒔いたものを刈取らせます。このことを通して罪の恐ろしさを民全体に学ばせます。 罪を犯させる力のあるサタンも、神とダビデとのかかわりの中まで邪魔することはできないのです。神の契約のとおり、ダビデの子孫は永久に滅びないのです。

コラム11

旧約時代 ~王制の時代へ~ 士師の時代が終わると、イスラエルの民の歴史は王政の時代に入 ります。士師の時代はモーセやヨシュアのようなリーダーがおら ず、まだ預言者も登場しない移行期です(このあと預言者が登場 してる)。ですから、こういうことが起こっていました。「さ て、少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主 のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(Ⅰサムエル 3:1)「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう…」(箴言 29:18)のですから、民の信仰は風前の灯のように消えかかって いたのです。 神はこのタイミングで預言者を民の中に立てるご計画を持ってお られました。神が最初に立てた預言者はサムエルです(Ⅰサムエル 3章)。 彼の際立った働きは、『預言者学校の設立と育成』です(Ⅰサム エル19:20)。人をお選びになる神の目と、ご自身のプランに狂 いは一つもありません。今後、イスラエルの民は神のみこころか ら大きく外れていくこととなります。民らは「私たちをさばく王 を私たちに与えてください」(Ⅰサムエル8:6)とサムエルに願い 出ます。これは神よりも人間の王に信頼を置く国の在り方を欲し たものです。そこにはサタンの誘惑があったと言わなければなり ません。周囲の異教国家に魅力を感じたのでしょう。民らは神を 退けたとも、誘惑されたとも思っていません。それがサタンの巧 妙な罠です。今の私たちに適用すべき事柄です。与えられている みことばを離してはなりません。  最初に立てられたサウル王は立派な人でしたが、王を欲しがっ た動機が動機だけに失敗に終わります。王は小さな不従順を重 ね、最後には神に反抗することが生きがいになってしまいまし た。次の王を立てることで神はどのようなプランを用意されてい るのか、次号のお楽しみです。

コラム10

旧約時代 ~士師の時代~ イスラエルのリーダーであるヨシュアが死ぬと、民はルールのない混迷の時代に突入します。士師記の最後のことばにこうあります。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」(21:25)本来、王であられる神に従わず、与えられた律法にも従わず、めいめいが人間的な判断で正しいと思うことを行っていました。ヨシュアのことを知らない世代になってから、イスラエルに偶像礼拝が加速しました(2:10-13)。偶像礼拝と連動しているのが、異教の民との結婚です。民は「カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のただ中に住み、彼らの娘を自分たちの妻とし、また自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えた」(3:5,6) この光景を見てサタンは微笑んでいます。神の計画である「女の子孫(救い主)」を阻止できるからです。  そこで神は「さばきつかさ」(2:16)「救助者」(3:9)と呼ばれる人たちを立てられます。イスラエルを圧迫から救い、神の安息を回復するために特別に立てられた人たちです。彼らは外敵からの攻撃のときには戦いの統率者として先頭に立ち、平和な時には部族間のもめごとを調停する裁判官的な働きをしました。そういう人たちのことを「士師」と言います(治める者、裁き人という意味)。  士師は何人も立てられました。 ①「背信」彼らが問題を解決して平和が訪れると民はすぐに堕落します。 ②「さばき」すると神は民をさばき敵の手に渡されます。 ③「悔い改め」苦しみの中で民は悔い改めます。 ④「救い」すると神は士師を遣わし問題を解決します。 問題が解決すると平和が訪れ、再び堕落…これらを繰り返します。ですから士師が何人も立てられたのです。今の私たちも彼らと同じではないでしょうか。人は実に弱いのです。  士師の時代は非常に不安定でした。サタンに息の根を止められてもおかしくない状況であったにもかかわらず、神は彼らを保護しました。この時代が終わると、イスラエルは王制時代に入ります。

コラム9

旧約時代 モーセからヨシュアへ 神の民はいよいよ約束のカナンの地に入っていきます。神の民を教育し、心の内側から強化するための「律法」と、聖なる神を正しく礼拝することを教える「幕屋」を携えてカナン入国です!民のリーダーがモーセからヨシュアにバトンタッチしました。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け」(ヨシュア1:2)民の指導者は変わります。しかし、神の計画は決して変わることなく前進します。 大河ヨルダン川を人の力で渡ることはできません。それを渡れと神が命じられたのは、神ご自身の計画を民が認めるためです。川の水が堰き止められる神の奇蹟を見たときに、神の力と救いの計画を自覚したことでしょう。 更に彼らを待ち受けていたのはエリコの町です(ヨシュア6章)。町を囲む頑丈な城壁、その城壁のように強いエリコの王と勇士たちを攻略しなければ、約束の地を自分たちのものにできません。イスラエルの民は神の知恵と力による超自然的な戦いによって大勝利をおさめます。 ヨシュアはエリコの戦いの前に「主の軍の将」と出会います(ヨシュア5:13-15)。 「主の軍の将はヨシュアに言った。『あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である』(ヨシュア5:15)主を礼拝せよと命じられているのです。礼拝すべきお方がわざわざ、ヨシュアの前に主の軍の将として現れてくださったのは、これから始まる戦いが、主の戦いであることを分からせるためでした。 神の救いの計画を進めるために、様々な人を用います。しかし、そこで起こるサタンとの戦いは私たちの戦いではなく、主の戦いです。その主ご自身が将軍として先頭に立って戦ってくださるのです。

コラム8

旧約時代 律法と幕屋 神様はご自身の救いのご計画の中で、ご自分の民を育てるお方です。前回、エジプトから救い出された民の、荒野の四十年間が大事な教育期間であることに触れました(申命記8:2-5)。神様はご計画の中で、本格的に民の教育に着手されます。それが旧約時代の「律法」と「幕屋」です。 「偶像を造ってはならない…殺してはならない…」などの十戒をご存じかと思います。それを含む神の律法の教えは、出エジプト記20章から始まり、申命記28章までの広範囲に記されています。その戒め(教え)は613にも及びます。これが与えられた目的は、イスラエルの民の信仰生活を正しい方向に導くためです。サタンは女の子孫である救い主メシアが誕生しないように神の計画を妨害してきます。その計画の一つであるイスラエルの民を堕落させようと必死です。そこで神は、罪や背教に流れていきやすい民の内側を強めるために律法を与えたのです。さて彼らは律法を守ったでしょうか?いいえ。それどころか、神の教えではない言い伝え(口伝律法)を次々と作り出してしまったのです。神の計画には計り知れない神の忍耐があるのです。  神の教育手段のもう一つは「幕屋」です。出エジプト記25-31章に記されています。「…アカシア材で~を作り、その長さを二キュビト、幅を一キュビト、高さを…」というような幕屋作成の指示が詳細にあります。ちょっと読み飛ばしたくなるところですね。しかし、大事な教えです。幕屋は神様を礼拝するところです。幕屋の役割は、神様が聖であることを教えるための視聴覚教材です。イスラエルの民は幕屋、そこで奉仕する祭司、あるいは、そこでささげられる動物のいけにえを通して神様が聖であることを学んだのです。それは同時に、世俗と混同することが許されないことも教えられています。イエスキリストによる血の犠牲(贖い)は、幕屋における礼拝から来ているのです。 神様はご自身のご計画のゆえに、私たちをサタンの妨害から守ってくださいます。私たち自身が神の御心(お考え、ご計画)を知るならば、その守りはより強化されます。そのために与えられたのが律法です。また、常にサタンの妨害がある中で、正しく聖なる神を礼拝するならば、サタンアは嫌がります。そのために与えられたのが幕屋です。

コラム7

旧約時代 アブラハム~モーセ 神は、ご自身の王国を建てるために、アブラハムを選び、契約を結ばれました。その契約はアブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへと継承されました。契約の3つの条項を覚えていますか。第一は土地(カナン)の約束です。約束通りに三代ともその地に留まっています。第二は子孫の約束です。アブラハムの子孫は増え広がっています。ヤコブからイスラエルの十二部族となる子どもたちが生まれ、子孫が「空の星、海の砂のように」増えるとの約束の通りに進みます。第三が祝福の約束です。地上のすべての民族がアブラハムを通して祝福されていきます。この三つ目は時間がかかります。堕落した人間を再生しなければならないからです。神の王国を成り立たせる3つの要素が必要と申し上げました。、①王(神)、②王の権威、③王国に住む民 3つ目が時間を必要とします。 神の契約の民は、ヤコブのときにエジプトに移住します。12人の子どもたちが与えられ、神の約束(契約)の通りに進んでいると思われましたが、兄弟たちの中で堕落が進んでしまっていたのです。そのままでは契約の民としての聖さを失うほどの霊的堕落です。彼らはねたみと憎しみから、一番下の弟ヨセフをエジプトに売ってしまったのですが、最終的に一家はエジプトに移住します。そのプロセスにはヨセフがエジプトの大臣になることも含まれています。カナンの地を離れてしまうのですが、それは人間を再生する神のご計画の一部です。このことを通してヤコブ一家はいのちを削られるほどの苦しみを負いますが、神の民として整えられていくのです。整えられるがゆえに、エジプトでイスラエルの民は大いに増え広がりました。 サタンはそれを見て黙ってはいられません。イスラエルの民を滅ぼす手段としてエジプト国家を使います。エジプトの王ファラオが民を奴隷として酷使するのです。そのとき民の中に誕生するのがモーセですね。神はモーセを用いて民を救い出し、民はカナンへと帰還します。その帰還も時間がかかりました。その理由が申命記8章に記されています。 「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられた…(8:2)人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるため…(8:3)、主があなたを訓練される…(8:5)」 これが一度カナンの地から離れた目的です。こうして神は、ご自身...

コラム6

旧約時代 アブラハム~モーセ 神は、ご自身の王国を建てるために、アブラハムを選び、契約を結ばれました。その契約はアブラハムからイサクへ、イサクからヤコブへと継承されました。契約の3つの条項を覚えていますか。第一は土地(カナン)の約束です。約束通りに三代ともその地に留まっています。第二は子孫の約束です。アブラハムの子孫は増え広がっています。ヤコブからイスラエルの十二部族となる子どもたちが生まれ、子孫が「空の星、海の砂のように」増えるとの約束の通りに進みます。第三が祝福の約束です。地上のすべての民族がアブラハムを通して祝福されていきます。この三つ目は時間がかかります。堕落した人間を再生しなければならないからです。神の王国を成り立たせる3つの要素が必要と申し上げました。、①王(神)、②王の権威、③王国に住む民 3つ目が時間を必要とします。 神の契約の民は、ヤコブのときにエジプトに移住します。12人の子どもたちが与えられ、神の約束(契約)の通りに進んでいると思われましたが、兄弟たちの中で堕落が進んでしまっていたのです。そのままでは契約の民としての聖さを失うほどの霊的堕落です。彼らはねたみと憎しみから、一番下の弟ヨセフをエジプトに売ってしまったのですが、最終的に一家はエジプトに移住します。そのプロセスにはヨセフがエジプトの大臣になることも含まれています。カナンの地を離れてしまうのですが、それは人間を再生する神のご計画の一部です。このことを通してヤコブ一家はいのちを削られるほどの苦しみを負いますが、神の民として整えられていくのです。整えられるがゆえに、エジプトでイスラエルの民は大いに増え広がりました。 サタンはそれを見て黙ってはいられません。イスラエルの民を滅ぼす手段としてエジプト国家を使います。エジプトの王ファラオが民を奴隷として酷使するのです。そのとき民の中に誕生するのがモーセですね。神はモーセを用いて民を救い出し、民はカナンへと帰還します。その帰還も時間がかかりました。その理由が申命記8章に記されています。 「あなたの神、主がこの四十年の間、荒野であなたを歩ませられた…(8:2)人は主の御口から出るすべてのことばで生きるということを、あなたに分からせるため…(8:3)、主があなたを訓練される…(8:5)」 これが一度カナンの地から離れた目的です。こうして神は、ご自身...

コラム5

旧約時代 アブラハム 旧約聖書があまり良くわからなくても、「アブラハム」のことは聞いたことがあるかと思います。「主はアブラムに言われた。『あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい』(創世記12:1)と、聖書に突然登場します。しかし、神様としてはご自身の王国を建て上げるために、ご計画通りに事を進めておられます。ノアの洪水後、人類はノアの息子のセム、ハム、ヤフェテから増え広がっていきました。悪魔はハム系の人間(ニムロデ)を利用して混乱をもたらしました。その結果、世界に様々な偽りの宗教が生み出されていきました。そこで神はセム系の人間からアブラハム(アブラム)を起こしました(創11:10-32)。彼から女の子孫であるメシア(贖い主)が誕生します。そのメシアが神の王国を完成させます。私たちはアブラハムのことを神に忠実に従う信仰の人として学びますが、彼が選ばれたのは、人類を贖い、神の王国を設立するための神の方法の一つです。彼は神の約束をそのまま信じて、生まれ故郷を捨てて1600キロ以上離れた神の与える地に出て行ったのです。 神様はご自分の計画を実現されるために、アブラハムと契約(約束)を結ばれました。それはアブラハムに土地を所有させること(カナンの地)、子孫を与えること(イスラエルの民)、神様の祝福を受けることです(創12:2,3)。この契約で大事なことは、神様が無条件の契約を結ばれたことです。彼は契約後すぐに罪を犯して失敗をします(創12:10-20)。本来であれば契約破棄です。それをご承知の神様は無条件の契約を結ばれたのです。その契約は今なお生きています。ですから、私たちも神との救いの契約によって、救いに与っているのです。 聖書を読んでいくときに、神様のご存在をより知っていきたいものです。そのためには、背後の悪魔の存在も知ることが必要です。なぜなら、両者の戦いがずっと展開されているからです。

コラム4

贖い主の約束 神の最高の計画はご自身の王国を造ることです。ところがその計画を阻む悪魔が、神の造られた人間と造られた全てのものを堕落させました。そのとき神はご自身の計画を進めるために、贖い主の約束を最初の人アダムとエバに与えました。 「わたしは敵意を、おまえ(悪魔)と女の間に、おまえの子孫と女の子孫の間に置く。」(創世記3:15前半) この約束は、悪魔に対するさばきを告げる中で述べられています。 神は、「おまえ(悪魔)と女の間」に敵意を置かれました。神の救いのご計画により、将来贖い主が女から誕生するためにそうされたのです。「おまえ(悪魔)の子孫」とは反キリスト的な存在のことでしょう。「女の子孫」とはメシア(救い主)のことです。その両者の間にも敵意を置かれました。最終的に贖い主が悪魔と反キリストを滅ぼすのです。その事は黙示録に詳しく述べられています。 贖い主の約束と共に述べられていたのは悪魔が滅びることの宣言です。 「彼はおまえ(悪魔)の頭を打ち、おまえは彼(贖い主)のかかとを打つ」(創世記3:15後半)頭の打撃は致命傷であるように、神はこの比ゆをもって悪魔が滅びることを宣言されました。贖い主が「かかと」を打たれるとは、致命傷を与えることができないわけですが、それは滅びが決定されたにもかかわらず、悪魔が神の計画を妨害してくる状況をあらわしているのです。悪魔の妨害は最初の人の子どもであるカインとアベルへの働きかけに早速現れています。信仰の人アベルが殺害されたことで女の子孫を阻止する魂胆です。神に対して愚かな戦いを挑むのが悪魔です。その視点で聖書の歴史を見ていくと、神のご計画がより見えてきます。 神がただちに悪魔を滅ぼさないのは、罪人まで滅びることを願わなかったからです。 贖い主の約束を果たして行かれる神は、悪魔と戦いつつ、罪人である私たちが悔い改めて神に立ち返るのを愛と忍耐をもって待っておられるのです。まさに比類なき救いの計画です。

コラム3

苦しみに満ちた不条理な今の世界を見て、「ほんとうに神はご自分の王国を造られているのか?」と思う人がいるかもしれません。その疑問をなくすには、悪魔の存在を正しく受け止めなければなりません。 被造世界を造り、そこに人を置かれたとき、「それは非常に良かった」(創1:31)と神は造られたすべてのものをご覧になって評価されました。ところが、そのすべてが呪われた存在となってしまいました。 神の王国を構成する人間(神の民)が罪を犯しました。王なる神と人格的に交わるために造られた人間が、「神のようになりたい」という野心を抱いた結果、堕落してしまいました。神と交わる存在から反抗する存在へと変わってしまったのです。神の造られた被造物を支配・管理するためにも人は造られていたので(創1:26)、その堕落した人間に伴い、自然界も呪われました(創3:17,18)。 そのような人間に、神のようになりたいと思わせ、神に反抗させるように仕向けたのが悪魔です。悪魔の目的は神の王国を阻むことです。王国を成り立たせる要素の地上世界と人間が呪われたものとなってしまっては立ち行きません。本来悪魔は神に造られた御使いでした。「全きものの典型、守護者ケルビム」(エゼキエル28:12,14)と呼ばれるリーダー的御使いでしたが、彼は神のようになりたいと欲し堕落したのです(イザヤ14:13)。悪魔は決して神にはなれません。造られたものに過ぎないからです。 さて、神の王国を阻むべく、悪魔は地上世界を堕落させ、神のものを横取りして己の王国を造りました。それがこの地上世界です。神はそれをまず奪還し、地上に神の王国をお立てになるのです(メシア王国または千年王国)。その意味合いからイエスの宣言である「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)を読むと、志がより鮮明に伝わってきます。私たちは、この神のプランを聖書から知って、イエスと同じ志をもって歩みたいのです。 *「神はなぜ悪魔をすぐに滅ぼさない?」と疑問を持たれた方は、tkj125gby@yahoo.co.jpの牧師まで!

コラム2

「神様は天地万物を何のために創造されたのだろう」と考えたことがありますか? 神は地上世界を造られ、そこに人間を置かれました。その人間は「神のイメージに似せること、造られたものを支配・管理すること」とスペシャルに創造されました。さて、そこにあるものは、①神、②人間、③地上世界です。この三要素で成り立つものは「神の国」です。パウロは神を「世々の王」(Ⅰテモテ1:17)と表現しています。つまり、神ご自身が王として統治する神の国を造られることが、天地万物を造られた目的なのです。 イエスが宣教を開始されたときの開口一番は「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)でした。私たちに教えてくださった祈りも、「御国が来ますように」(マタイ6:10)です。イエスの思いも、語ることばも、向かっている方向も神の国です。 私たちの思いも、ことばも、向かっている方向も神の国ですね。イエスと同じ一つの目的に向かって貫かれている生き方は喜びです。迷っても戻ることができます。苦しくても忍耐することができます。神の国へと向かう目的があるからです。その完成は近づいています。 「どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。」(Ⅰテモテ1:17)

コラム1

「信仰によってアブラハムは召されたとき、相続財産として受けることになっていたところに出て行くことで(神に)従順に従った。そして、どこへ行くのかを知らないのに出て行った。」(ヘブル11:8 私訳) 自分が救われた頃のことを思い返すと、聖書を開くのもままならず、どのようにして信仰生活をしたらよいのか分からないことばかりです。カルデアのウルで生まれ育ったアブラハムは、恐らく昨日まで偶像礼拝をしていた人です(カルデア人がバビロニア帝国を建国。占星術を発達させた地)。彼はそこでまことの神を信じました。信仰生活の右も左もわかりません。でも、それが信仰生活であることをアブラハムから教えられます。「わたしが示す地へ行きなさい」と命じられた彼は、自分の親族と生まれ故郷をあとにして従いました。最終目的地は知りません。救われた私たちも、「新しい天と新しい地」(黙示21:1)と呼ばれる神の国を知りません。しかし、そこへ行けと既に神から命じられています。それが信仰生活と捉えて間違いないようです。聖書が教えていますから。 『どこに行くのかを知らないで、私は行く。  知らなくてもよいのだ。  光の中を独りで歩くよりも、  むしろ暗やみの中を神とともに歩みたい。  目に見えるところをひとりで歩くよりも、  むしろ信仰によって神とともに歩みたい」  ヘレン・アニス・キャスターリン