Posts

コラム13

旧約時代 ~王国の分裂、追放~ 神は「わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる」(Ⅱサムエル7:13)とダビデ契約を結ばれたことで、ご自身の救いの計画の不動性を宣言されました。すなわち、以後、王をはじめ民が失敗しても契約は取り消されません。ダビデの子孫は絶えることがないので、必ず救い主(女の子孫)が誕生することになるのです。 とは言っても今後の展開を見ていくと、とてもそうは思えません。ダビデから引き継いだソロモン王は、最初こそ自分の祝福よりも、国のために神の知恵を求めました。その豊かな知恵をもって国を治めていましたが、与えられた神の知恵さえ高ぶる要素となってしまいました。彼は力の繁栄を誇り(Ⅰ列王10:26)、無秩序の異性関係に陥り(Ⅰ列王11:1-3)、それに伴い様々な偶像が入り込み、まことの神礼拝の他に、妻たちがもたらした偶像神も礼拝するようになりました。 ソロモンの死後、国は分裂しました。これは国へのさばきです。しかし神は契約を破棄したのではありません。その証拠に、神は分裂した北と南の王国に次々と預言者を送るのです。預言者は民を神に立ち返らせるために、神から預かったことばを民に教える人です。その甲斐なく、民は益々悪くなっていきます。 神は激しく怒り、彼らに与えた地から民を追放します。まず神は北王国をアッシリア帝国に引き渡します(アッシリア捕囚 Ⅱ列王記17:5,6)。それから100年余経過してから南王国もバビロンに引き渡します(バビロン捕囚 Ⅱ歴代誌36:5,6)。契約は破棄されていないとしても、最悪の状況です。神のご計画はほとんど進んでいないとさえ思えるのです。  民が約束の地に入る前、神がイスラエルの民をお選びになった理由をこう仰せられました。「…主があなたがたを愛されたから、またあなたがたの父祖たちに誓った誓いを守られたから…」(申命記7:8)だから神は彼らを選び、エジプトから贖い出されたのです。神がご自身の計画を進められるのは、私たちへの愛と、ご自分が結ばれた契約を果たすためです。その神があえて愛する民を他国へ引き渡されるのはお考えがあるからです。それは容赦ないさばきとして、また頑なな民の心を矯正する手段としてです。神の愛から動かれていることは間違いありません。

2025年1月19日 午後礼拝メッセージ動画

ヨハネの黙示録20章1〜6節 テーマ「 千年(メシア)王国 」

コラム12

旧約時代 ~ダビデ王朝~ イスラエルの民が国に王を欲しがった動機は、神よりも人間の王に信頼を置きたいからでした。それにより立てられたサウル王は失敗に終わりました。次に立てられた王は神のご計画によるものです。ダビデ王です。 ダビデは12部族を統合した統一王国を確立しました。また彼は他民族が住んでいたエルサレムを征服し、そこを首都としました。やがて来られるイエスが築かれるメシア王国は、エルサレムが中心となります。 神はダビデと契約を結ばれます(Ⅱサムエル7:4-17)。この契約は神の救いのご計画において、大事な宣言がされているものです。「彼(ダビデ)はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」(Ⅱサムエル7:13) 神はダビデの「家」「王国」「王座」が永遠に続く契約を結ばれました。永遠の契約なので、ダビデが失敗したり、次の王(ソロモン)が失敗しても神の恵みが取り去られないことになっています。それはどういうことかというと、ダビデの子孫は途絶えないので、サタンが阻止していた女の子孫であるメシアは必ず起こされるということです。ダビデ契約はサタンへの勝利宣言のようなものです。 サタンは必死になってダビデの子孫の誕生を阻止します。ダビデ王が他人の妻バテ・シェバを奪い、彼女の夫を戦死させて隠ぺいを図った罪は(Ⅱサムエル11章)、間違いなくサタンの誘惑からのものです。しかし、神の勝利宣言のとおりにサタンは失敗に終わります。ダビデはさばかれるべき罪を犯しました。この事実は変えられません。しかし彼は神に悔い改めたのです(詩篇51篇)。神は彼を赦します。そして、蒔いたものを刈取らせます。このことを通して罪の恐ろしさを民全体に学ばせます。 罪を犯させる力のあるサタンも、神とダビデとのかかわりの中まで邪魔することはできないのです。神の契約のとおり、ダビデの子孫は永久に滅びないのです。

コラム11

旧約時代 ~王制の時代へ~ 士師の時代が終わると、イスラエルの民の歴史は王政の時代に入 ります。士師の時代はモーセやヨシュアのようなリーダーがおら ず、まだ預言者も登場しない移行期です(このあと預言者が登場 してる)。ですから、こういうことが起こっていました。「さ て、少年サムエルはエリのもとで主に仕えていた。そのころ、主 のことばはまれにしかなく、幻も示されなかった」(Ⅰサムエル 3:1)「幻がなければ、民は好き勝手にふるまう…」(箴言 29:18)のですから、民の信仰は風前の灯のように消えかかって いたのです。 神はこのタイミングで預言者を民の中に立てるご計画を持ってお られました。神が最初に立てた預言者はサムエルです(Ⅰサムエル 3章)。 彼の際立った働きは、『預言者学校の設立と育成』です(Ⅰサム エル19:20)。人をお選びになる神の目と、ご自身のプランに狂 いは一つもありません。今後、イスラエルの民は神のみこころか ら大きく外れていくこととなります。民らは「私たちをさばく王 を私たちに与えてください」(Ⅰサムエル8:6)とサムエルに願い 出ます。これは神よりも人間の王に信頼を置く国の在り方を欲し たものです。そこにはサタンの誘惑があったと言わなければなり ません。周囲の異教国家に魅力を感じたのでしょう。民らは神を 退けたとも、誘惑されたとも思っていません。それがサタンの巧 妙な罠です。今の私たちに適用すべき事柄です。与えられている みことばを離してはなりません。  最初に立てられたサウル王は立派な人でしたが、王を欲しがっ た動機が動機だけに失敗に終わります。王は小さな不従順を重 ね、最後には神に反抗することが生きがいになってしまいまし た。次の王を立てることで神はどのようなプランを用意されてい るのか、次号のお楽しみです。

コラム10

旧約時代 ~士師の時代~ イスラエルのリーダーであるヨシュアが死ぬと、民はルールのない混迷の時代に突入します。士師記の最後のことばにこうあります。「そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。」(21:25)本来、王であられる神に従わず、与えられた律法にも従わず、めいめいが人間的な判断で正しいと思うことを行っていました。ヨシュアのことを知らない世代になってから、イスラエルに偶像礼拝が加速しました(2:10-13)。偶像礼拝と連動しているのが、異教の民との結婚です。民は「カナン人、ヒッタイト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人のただ中に住み、彼らの娘を自分たちの妻とし、また自分たちの娘を彼らの息子に与えて、彼らの神々に仕えた」(3:5,6) この光景を見てサタンは微笑んでいます。神の計画である「女の子孫(救い主)」を阻止できるからです。  そこで神は「さばきつかさ」(2:16)「救助者」(3:9)と呼ばれる人たちを立てられます。イスラエルを圧迫から救い、神の安息を回復するために特別に立てられた人たちです。彼らは外敵からの攻撃のときには戦いの統率者として先頭に立ち、平和な時には部族間のもめごとを調停する裁判官的な働きをしました。そういう人たちのことを「士師」と言います(治める者、裁き人という意味)。  士師は何人も立てられました。 ①「背信」彼らが問題を解決して平和が訪れると民はすぐに堕落します。 ②「さばき」すると神は民をさばき敵の手に渡されます。 ③「悔い改め」苦しみの中で民は悔い改めます。 ④「救い」すると神は士師を遣わし問題を解決します。 問題が解決すると平和が訪れ、再び堕落…これらを繰り返します。ですから士師が何人も立てられたのです。今の私たちも彼らと同じではないでしょうか。人は実に弱いのです。  士師の時代は非常に不安定でした。サタンに息の根を止められてもおかしくない状況であったにもかかわらず、神は彼らを保護しました。この時代が終わると、イスラエルは王制時代に入ります。

コラム9

旧約時代 モーセからヨシュアへ 神の民はいよいよ約束のカナンの地に入っていきます。神の民を教育し、心の内側から強化するための「律法」と、聖なる神を正しく礼拝することを教える「幕屋」を携えてカナン入国です!民のリーダーがモーセからヨシュアにバトンタッチしました。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け」(ヨシュア1:2)民の指導者は変わります。しかし、神の計画は決して変わることなく前進します。 大河ヨルダン川を人の力で渡ることはできません。それを渡れと神が命じられたのは、神ご自身の計画を民が認めるためです。川の水が堰き止められる神の奇蹟を見たときに、神の力と救いの計画を自覚したことでしょう。 更に彼らを待ち受けていたのはエリコの町です(ヨシュア6章)。町を囲む頑丈な城壁、その城壁のように強いエリコの王と勇士たちを攻略しなければ、約束の地を自分たちのものにできません。イスラエルの民は神の知恵と力による超自然的な戦いによって大勝利をおさめます。 ヨシュアはエリコの戦いの前に「主の軍の将」と出会います(ヨシュア5:13-15)。 「主の軍の将はヨシュアに言った。『あなたの足の履き物を脱げ。あなたの立っている所は聖なる場所である』(ヨシュア5:15)主を礼拝せよと命じられているのです。礼拝すべきお方がわざわざ、ヨシュアの前に主の軍の将として現れてくださったのは、これから始まる戦いが、主の戦いであることを分からせるためでした。 神の救いの計画を進めるために、様々な人を用います。しかし、そこで起こるサタンとの戦いは私たちの戦いではなく、主の戦いです。その主ご自身が将軍として先頭に立って戦ってくださるのです。

コラム8

旧約時代 律法と幕屋 神様はご自身の救いのご計画の中で、ご自分の民を育てるお方です。前回、エジプトから救い出された民の、荒野の四十年間が大事な教育期間であることに触れました(申命記8:2-5)。神様はご計画の中で、本格的に民の教育に着手されます。それが旧約時代の「律法」と「幕屋」です。 「偶像を造ってはならない…殺してはならない…」などの十戒をご存じかと思います。それを含む神の律法の教えは、出エジプト記20章から始まり、申命記28章までの広範囲に記されています。その戒め(教え)は613にも及びます。これが与えられた目的は、イスラエルの民の信仰生活を正しい方向に導くためです。サタンは女の子孫である救い主メシアが誕生しないように神の計画を妨害してきます。その計画の一つであるイスラエルの民を堕落させようと必死です。そこで神は、罪や背教に流れていきやすい民の内側を強めるために律法を与えたのです。さて彼らは律法を守ったでしょうか?いいえ。それどころか、神の教えではない言い伝え(口伝律法)を次々と作り出してしまったのです。神の計画には計り知れない神の忍耐があるのです。  神の教育手段のもう一つは「幕屋」です。出エジプト記25-31章に記されています。「…アカシア材で~を作り、その長さを二キュビト、幅を一キュビト、高さを…」というような幕屋作成の指示が詳細にあります。ちょっと読み飛ばしたくなるところですね。しかし、大事な教えです。幕屋は神様を礼拝するところです。幕屋の役割は、神様が聖であることを教えるための視聴覚教材です。イスラエルの民は幕屋、そこで奉仕する祭司、あるいは、そこでささげられる動物のいけにえを通して神様が聖であることを学んだのです。それは同時に、世俗と混同することが許されないことも教えられています。イエスキリストによる血の犠牲(贖い)は、幕屋における礼拝から来ているのです。 神様はご自身のご計画のゆえに、私たちをサタンの妨害から守ってくださいます。私たち自身が神の御心(お考え、ご計画)を知るならば、その守りはより強化されます。そのために与えられたのが律法です。また、常にサタンの妨害がある中で、正しく聖なる神を礼拝するならば、サタンアは嫌がります。そのために与えられたのが幕屋です。