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コラム26

~新しい天と新しい地~ 神の最高の計画としてのみことばコラムは、今回で最終回です。神の国建設計画のゴー ルが「新しい天と新しい地」だからです。神が目指しておられるこのゴールを、私たちも 同じように目指すことができたら幸いです。この預言は黙示録21~22章にのみありま す。旧約の預言者たちは知らないということですね。罪の影響を全く受けない新天新地が 創造される様子が記されています。ただし「聖なる都」としての「新しいエルサレム」が その時創造されるのではありません。それは天において既に存在しており、創造された新 しい天と新しい地のところに降って来るのです(黙示録21:2)。ヨハネがまず見せられた のはそれで、次に彼は天からの声を聞きました。第一声が「見よ。神の幕屋が人とともに ある。神は人々とともに住み…」です(黙示録21:3)。これまでの世界で経験することが できなかった神の永遠なる栄光だけに囲まれて生活するようになることを預言しています 。 その永遠の生活は、消極的な意味では、一切の苦労、呪い、また悲しみの原因がすべて取 り除かれた生活です。極めて積極的な意味では、造られた新天新地の中に降ってくる「新 しいエルサレム」を相続するということです。 朽ちることのない神の財産を相続するわけですが、その特徴が記されています。都自体 のサイズは一辺を2200㎞としたキューブ状です(21:16)。月の体積と同じくらいと言わ れているそうですが、この世界にそのサイズの都市は存在しません。壁の高さは63mも (21:17)都の素材は神の栄光にふさわしいものばかりです(21:18-21)「いのちの水の川 」が流れています。その水源は神と子羊の御座です(22:1)。実際の川ですが、永遠の霊 的祝福の象徴でもあります。その両岸にはいのちの木が植わっていて、毎月が収穫期です 。しかも12種の異なった実がなるのです。その木の葉は民を癒します。病人がいるのでは なく、健康を永遠に与え続けるものです。そこには夜(闇)がありません。罪がいっさい 入りようがないからです。常に神の栄光の光が照らします(22:5)。 イエスはこの預言の最後にこう言われました。「しかり、わたしはすぐに来る 」(22:20) 今すぐに来るという意味ではありません。あらかじめ定められた神の時に遅れることなく 来るという意味で...

コラム25 

~白い御座のさばき~ 前回、千年王国預言に触れました。地上において千年の間イエスが王国を治めます。そ の間悪魔は全く活動できないように底知れぬ所に閉じ込められます(20:1,2)。既に携挙 された私たちのからだは贖われて、罪のない状態でイエスとともに国を治めるのです。今 の地上に比べると、極めて罪のない状態になります。それは、戦いがないこと(イザヤ 2:1-4)、人の寿命が長いこと、動物と人、動物同士に敵意がないこと(イザヤ65:20-25) でも現されています。しかし、罪が全くなくなるわけではありません。王国には空中携挙 されずに患難時代に突入し、そこで救われていく人たちがいます。またその人たちから生 まれて来る子どもも救われなければなりません。  さて、千年が終わる時、拘束されていた悪魔が解き放たれます。悪魔はイエスと最後の 戦いをするために、王国にいる携挙されていない人々(救われた人たちを含む)を惑わし て、イエスに敵対する者として招集します。その数が海の砂のようです(20:7-8)。罪が 存在していることが良くわかりますね。神が悪魔を解き放ったのは、最後のさばきを行う ためです。悪魔とそれに従った者たちは、天からの火によって一瞬のうちに焼き尽くされ ます。そして、反キリストと偽預言者とともに火と硫黄の池に投げ込まれます。「…彼は おまえの頭を打ち…」(創世記3:15)との原福音が成就します。 悪魔を永遠の苦しみに葬ったあと、神は最終的なさばきを「大きな白い御座」において 行われます。天地創造によって地上に存在した全ての不信者を、神はさばくためによみが えらせます。神はいのちの書に従って、そこに名が記されていないすべての者を、悪魔と 同じ火の池に投げ込まれるのです。その時に「死」もそこに投げ込まれます。「…キリス トは死を滅ぼし、福音によっていのちと不滅を明らかに示されたのです」(Ⅱテモテ 1:10)とのみことばから、白い御座に着座されているのはイエス・キリストであることが わかります。私たちを罪から救うために十字架の死に従われたお方は、「殺した後で、ゲ ヘナに投げ込む権威を持っておられる方」(ルカ⒓:5)です。悪魔の支配の今の世におい て、この方を恐れる人は幸いです。

コラム24

~千年王国~ 千年王国とは、再臨のイエスによって建てられる地上の王国です。「千年」は文字通り で、黙示録20章の預言のことばに6回出てきます。ところで皆さんは千年王国に関心があ りますか?いわゆる「天国」よりも関心を示すことが難しい場合、旧約聖書を余り読んで いないことが一つの原因と考えられます。旧約聖書には千年王国預言が沢山書かれていま す。ただ通読だけだと見落としがちですが、全体的に神の計画を意識して取り組むと、千 年王国が見えてきます。ちなみに、「終わりの日」「その日」「主の(聖なる)山」「エ ルサレム」と言うワード、フレーズが出て来たら千年王国の可能性ありです(すべてでは ないですが)。いくつか見ていきしょう。 ①詩篇24章 「だれが、主の山に登り得るのか…手がきよく、心の澄んだ人…あなたの 御顔を慕い求める人々である…門よ おまえたちの頭を上げよ…栄光の王が入って来られ る…」主の山はエルサレムを指します。千年王国の首都です。その時には主と顔と顔とを 合わせて交わります。 ➁イザヤ2:2-4「終わりの日に…国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばな い」千年王国はイエスが王となって治めるので、すべてではないですが戦いが激減します 。  ③アモス9:11「その日、わたしは倒れているダビデの仮庵を起こす…」 倒れているダビデの仮庵とは、旧約時代ダビデ王国の栄光が無力にも風前の灯となってし まったのですが、神と人の幕屋が、その日、神のご主権によって回復される預言です。千 年王国のことです。  ④ミカ4:1-8 「その終わりの日、主の家の山は、山々のかしらとして堅くたち、もろも ろの丘よりも高くそびえ立つ…」千年王国が確立する時には、エルサレムが地殻変動によ って他の山々よりも高くそびえ立つことが預言されています。  ⑤ハガイ2:6-9 「…間もなく、もう一度、わたしは天と地、海と陸を揺り動かす…わた しはこの宮を栄光で満たす…この宮のこれから後の栄光は、先のものにまさる…」 宮と は千年王国における王なるイエスの神殿のことです。「先のものにまさる」宮は千年王国 だけです。 旧約の聖徒たちは千年王国に望みを向けています。ですから、この他にも千年王国預言が なされているのです。これを知らないことは神の祝福を大きく取りこぼします。皆さん、 聖書を読みましょう...

コラム23

~地上再臨~ 7年の患難期の終わりに、イエス・キリストが地上に再臨されます。旧約聖書にも預言 されています(エゼキエル39:21-29、ハバクク3:1-19)詩篇18篇8,9節には「…炭火は主 から燃え上がった。主は、天を押し曲げて降りて来られた。黒雲をその足の下にして」と あります。ユダの手紙14、15節も注目すべき預言です。「…見よ、主は何万もの聖徒を引 き連れて来られる。すべての者にさばきを行い、…不敬虔な罪人たちが主に逆らって語っ たすべての暴言について、皆を罪に定めるためである」初臨における柔和の姿はなく、怒 りに満ちたキリストが再臨されます。地をさばくために来られるからです。マタイ24章30 節ではキリストご自身が預言しておられます。 さて、創造のはじめに人が堕落して以来、サタンとの戦いが繰り広げられてきました。 いよいよ最後の戦いです。反キリストと悪霊どもによって集められた全世界の王たちが 、「全能者なる神の大いなる日の戦い」に挑みます(黙示録16:14)。この戦いを主導し ておられるのは神です。「あなたがたの鋤を剣に、あなたがたの鎌を槍に打ち直せ…周り のすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ…諸国の民は立ち上がり、ヨシャファテの 谷に上って来い」(ヨエル3:9-12)ヨエル書の預言にあるように、神は、ご主権の中で 、反抗する全世界の王とその軍隊が「(エルサレムにある)ヨシャパテの谷」に集まって 来いと挑戦しておられるのです。彼らの最後は「…生きたまま、硫黄と燃える火の池に投 げ込まれ」ます。(黙示録19:19,20) 勝利されたキリストはオリーブ山に立たれます。「主が出て行かれる。決戦の日に戦う ように、それらの国々と戦われる。その日、主の足はエルサレムの東に面するオリーブ山 の上に立つ。オリーブ山はその真ん中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができ る…」(ゼカリヤ14:3,4)そして、「人間が地上に現れて以来、いまだかつてなかったほ どの、大きな強い地震」が起こり(黙示録16:18)、主が立たれるオリーブ山が真っ二つ に裂けるのです。ミカ書4章1節には「その終わりの日、主の家の山は、山々のかしらと して堅く立ち、もろもろの丘よりも高くそびえ立つ。そこへもろもろの民が流れて来る」 とあります。 キリストが反キリストとその軍勢に勝利されたの...

コラム22

~地上の患難時代~ すべての真の信者がイエスのもとに引き上げられると(携挙)、地上では7年間の患難 時代に突入します。その預言のことばは黙示録4~18章に、またイエスもマタイの福音 書24章で預言されています。  今は地上に教会が存在します。しかし患難時代には存在しなくなります。そうなると地 上で何が起こるでしょうか?「不法がはびこ」ります(マタイ24:12)。イエス(真理 )に対抗する背教が起こるということです(Ⅱテサロニケ2:3,4)。そこに「不法の者 、すなわち滅びの子が現れ」ます。反キリストのことです。黙示録では「獣」と呼ばれて います。(反)キリストと呼ばれるくらいですから魅力があります。7年間の前半はその 魅力で人々を惑わします。人々を調和する力、経済的繁栄、法の秩序…これまでにはない 平和が訪れたと人々は思います。世界の国々は反キリストに権威を付与します。キリスト に反抗し続けているイスラエルも、反キリストと契約を結びます(ダニエル9:27)これ らの反キリストのねらいは自分の国を造ることです。神の国を造らせないためのものです 。人々の心をつかんだ7年の後半は、反キリストを礼拝の対象として拝むことを要求しま す(Ⅱテサロニケ2:4、マタイ24:15)。このようにして反キリストは絶対的な権威を 行使して獣の国を確立するのです。  さて、神はなぜ患難時代を計画されたのでしょうか? 一つには、獣の国(悪魔の国)を完全に破壊するためです。そこには悪のコマ(反キリス ト、偽預言者、反キリストに追従する国々)がすべて揃います。悪魔の支配世界を「世」 と呼びます。本来神が造られたものです。それをだれの目からもわかるように、神が奪還 されるのです。かつてパロの率いるエジプトを海が呑み込んで神の栄光を現したように、 神の計画の最終段階は更にダイナミックに行われるのです。 もう一つは、イスラエルの救いのためです。彼らは歴史の中で、どんなに追い詰められて も、イエスがキリスト(メシア)であることを否定し続け、悔い改めることをしません。 しかし、彼らは患難時代の終わり間際で悔い改めます(ゼカリヤ12:10)。「…イスラエ ルの一部が頑なになったのは異邦人の満ちる時までであり、こうして、イスラエルはみな 救われるのです」(ローマ11:25,26)。つまり、イスラエルが民族ごと救...

コラム21

~携挙後のキリストのさばきの座~ 今も主は私たちとともにおられますが、携挙された時(Ⅰテサロニケ5:17)から顔と顔と を合わせてお会いすることになります。想像ができません。ですから聖書が教えるところ を信じましょう。ただお会いするのではなく、携挙の結果、信者は「人の子の前に立つ 」(ルカ21:36)ことになります。立つ場所は「キリストのさばきの座」です(Ⅱコリント 5:10)。罪をさばく場ではありません。この時は既に「朽ちないものによみがえ」ってい ますから(Ⅰコリント15:52)、全く罪のない状態です。信者はキリストの前で、地上生涯 で行って来たことに応じて報いを受けるというさばきを受けるのです。(「さばく」とは 、あちらとこちらに分けることを言う)救われた後の行為すべてをキリストが評価される のです。 「私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあ ってした行為に応じて報いを受けることになるからです」(Ⅱコリント5:10)   イエスの評価の仕方は、Ⅰコリント3章10-15節に、建物の建て方のたとえで教えられてい ます。イエスという土台の上に、どのような材質で建物を建てたかがさばきの基準です。 材質には「金、銀、宝石、木、草、藁」があります。神のみこころに沿った建て方は、金 、銀、宝石です。木、草、藁は、地上における告白されていなかった罪の生活です。繰り 返し申し上げますが、その時既にからだは贖われ罪のない状態です。それと地上生涯の評 価(報い)は別です。  主は建てた材質を火で燃やされます。木、草、藁の信仰生活、その働きは燃やされてし まいます。金、銀、宝石の働きはより純化されます(3:13-15)。後者の評価は冠によって あらわされます。 ①節制し、霊的生活で勝利した者に与えられる「朽ちない冠」(Ⅰコリント9:24,25)、 ②主を待ち望みながら正しい信仰を守った者に与えられる「義の冠」(Ⅱテモテ4:7,8) ③試練を耐え抜き最後まで忠実な者に与えられる「いのちの冠」(ヤコブ1:12、黙示録 2:10) ④神の羊の群れを牧した者に与えられる「栄光の冠」(Ⅰペテロ5:2-4) 救いを完成してくださる方から良い評価をいただきたいと生きる信仰生活は祝福されるで しょう。この望みを抱き続けることができるように、聖霊が兄姉を助けてく...

コラム20

~携挙される教会~ 「携挙」とは教会が天に挙げられることです。神の救いのご計画の最終段階に入る大事 なところです。そこでは神の超自然的なわざが展開されます。携挙される教会は不可視的 な教会です。イエスを信じて救われた真の信者が全員、天に挙げられることになります。 携挙時にどのようなことが起こるのかテサロニケ第一の手紙4章16~18節に記されて います。順を追って整理します。 ①キリストが天から下って来られる ②号令がかかる  下って来られたキリストの号令で、以下が動き出します。 ③御使いのかしらの声が発せられる ④神のラッパが響く 携挙が起こるための最終的な合図です。 ⑤キリストにある死者がよみがえる 使徒2章以降の聖霊のバプテスマに与った信者の死者たちがよみがえります。旧約時代の 信者たちのよみがえりは、もう少し先で起こります。 ⑥生き残っている信者たちが、⑤の信者たちと一緒に雲に包まれて引き上げられる ➆すべての信者が空中で主イエスキリストと会い、いつまでも(永遠に)主とともにいる ことになる 携挙の時期は、患難時代に入る前です。患難時代の始まりはダニエル書9章27節に記 されています。「彼は一週間の間、多くの者と堅い契約を結び…」「彼」とは反キリスト のことで、「多くの者」とはイスラエルのことです。反キリストがイスラエルと契約を結 ぶときが患難時代の始まりです。その前に不可視的教会は携挙されます。 黙示録を見ると、1~3章が患難時代の前の出来事が記されています。そこには教会が 存在しています。また、黙示録19~22章は患難時代の後のことが記されていて、そこ にも教会が存在しています。そこでは花婿イエス・キリストの「花嫁」として表現されて います(19:7、21:2)。黙示録4~18章は患難時代のことが記されています。そこに 教会の言及はありません。つまり、患難時代には地上に教会が存在しないということです 。また、これらの黙示録の言及から、携挙される教会が可視的教会ではなく、不可視的教 会であることも確認できます。正しい教会理解は、神の計画の最終段階(終末)を正しく 理解させてくれます。